はじめに

主人公の行動は愛だったのか。

あるいは復讐だったのか。

多くの人が抱くもやもやした印象をある視点から考えてみると、復讐だとは思えない。

 

 

 多くの映画がそうであるように、トム・フォードの最新作「ノクターナル・アニマルズ」を観た人たちの感想も三つに分かれるのではないでしょうか。

絶賛、退屈、あるいは困惑。

 

 絶賛と退屈に関してはあえて口を挟む必要はないでしょう。

絶賛する人たちはそれでよし、退屈と感じる人たちは、マイティー・ソーのチケットを買えばいいのです。

 

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問題は困惑する人たちです

映画が終わったあと、感想の一言さえ出すことができず、もやもやとした気持ちだけが残った人は少なくないはずです。

それを払拭するためにグーグルで検索をかけ、誰かの書いたコラムを読み、「復讐」がテーマだったのかと考えるかもしれません。

ですが、それもまた腑に落ちないのであれば、ちょっと立ち止まってみてください。

 

 

 物語の展開などはひとまず置いておいて、もやもやとするのは最後のシーンではないでしょうか。

最後、二人が再会していれば言及する必要はありません。

どうして彼は訪れなかったのか?

その問いに対する答えをトム・フォードは用意してくれなかった。

なので、シーンを振り返って考えてみる。

すると確かに「復讐」という言葉が一番妥当なのかと、考えてしまいます。

 

 

 しかし、わたくしは決してそうは思いません。

もちろんあくまで個人的な考えにはなるのですが、「復讐」と思わない理由を考えました。

 

 

あらすじを振り返る

 アートギャラリーのオーナーであるスーザン。

夫はハンサムで豪邸に住み、自らの個展には大勢の著名人が訪れる。

恵まれた暮らしをしている一方で、心はどこか満たされない生活を送っていました。

 

そんなある日、19年前に離婚した元夫のエドワードより彼の小説「夜の獣たち(ノクターナル・アニマルズ)」が送られてきます。

スーザンに捧げられたその小説は暴力的で衝撃的な内容であり、一人ページをめくる彼女はその力強さに圧倒されます。

 

過去に元夫の精神的な弱さを軽蔑し離婚に至った経緯があったのですが、小説を読み進めるうちにこれまでに見えなかったエドワードの非凡な才能を読み取り、スーザンは次第に再会を望むようになります。

 

彼女は、高級レストランでエドワードと再会する約束をしますが、エドワードはいつまで経っても訪れない。

一人取り残された彼女の姿で映画は終わります。

 

 

「復讐」と取る根拠

 

1.エドワードが書いた小説の主人公は妻と娘を男たちに奪われ、強姦されたうえ惨殺される。

一方現実でも彼は妻を金も地位もある男に奪われたうえ、子供まで無断で中絶されている。

 

 彼女に裏切られたから仕返しをしてやる、という考えかたでしょうが「復讐」と結びつけるには難しいのではないでしょうか。

 

 

 たしかに過去の裏切りを引きずるのは男の性ではあります。

現実世界で受けた傷を小説という形にし彼女に与える、なるほど最もな理由といえそうです。

三流作家であればそのような心理を主人公に与えるかもしれませんが、彼は三流作家ではありません。

 

 

 というのも、彼は作家になることを志していたわけではないからです。

彼は「偉大な作家」になることを志していたのです。

 

それは大きな違いです。

「車の運転をしたい」と、「F1レーサーになりたい」ほどの大きな開きがあります。

 

 

 偉大な作家が過去の裏切りを小説という形にし、単なる個人的な復讐のための手段にする、ということは考えにくい。

偉大な作家というのは、「過去の女など小説の種」程度にしか考えていないからです。

 

 

2.スーザンのギャラリーに飾られていた絵に描かれていた「Revenge」という文字が映画のテーマのメタファーになっている

 

 「Revenge」という文字があるから復讐だと結びつけるには安易で浅薄に思えます。

それにギャラリーに飾られていた絵はエドワードのものではありません。

エドワード個人の感情が絵に描かれているとは思いませんし、小説家である彼が直接的な言葉で表現するのもおかしな話です。

よってこれは単なる偶然とします。

 

 

3.エドワードは、自分の作品に対し謙虚でありながらもいずれは尊敬する偉大な作家たちと肩を並べられるという自信を持っていた。

それを妻であるスーザンに否定されている。

作品を送りつけたのは過去の彼女の言動を非難するため。

 

 

 これは間違いではない気がします。

どの世界でもトップに君臨する人たちは逆境をバネに這い上がってきた人たちばかりです。

プロ野球選手も、作家も、音楽家も、映画監督も。

 

ですからエドワードの頭の中には、彼女に作品を非難された記憶は残っているでしょう。

それが書くためのエネルギーになった可能性も大いにあります。

 

 

 彼女へ小説を送ったのは、自分が書いた小説を読んでもらいためでしかありません。

そして、もしかしたら客観的な視点で作品を評価してもらいたい、そういう気持ちがあったと仮定することもできます。

 

彼女はアートディレクターという職業ですが、優れた批評眼を持っていました。

個人的な感情を抜き、作品の良し悪しを評価することができる。

ゆえに若い頃のエドワードを傷つけることにもなるのですが、歳を重ねた今は違うはずです。

優れた小説かどうかを客観的に判断してもらうため、彼女に送ったのかもしれません。

 

 

 やはり怒りという気持ちはなかったといって間違いないでしょう。

彼が送った小説はとても綺麗な箱に収められていた。

まるで恋人へ送るクリスマスプレゼントのようでした。

もちろんエドワードが小説を箱に入れる姿は映されていませんが、本を箱に収め、やさしく紐でしばる彼の姿を想像したとき、そこに怒りを見つけることは困難です。

 

 

まとめ

 彼の行動が「復讐」か否かについて考えてみましたが、明確な答えを出すことはできません。

復讐かもしれないし、そうじゃないかもしれない。

その点は各々で推測するしかありません。

 

 

 彼が待ち合わせ場所に来なかった理由を出すことも、もはや不可能です。

それを知るためにはエドワードに電話して、「ねえ、どうして来なかったの?」と聞く以外に方法はないでしょう。

監督のトム・フォードだってわかっていないかもしれません。

ですから「なぜ?」に対する答えを出すことはできませんし、いくら考えても無駄になってしまいます。

 

 

 エドワードが姿を見せずに映画が終わり、疑問と不満が湧き上がりました。

しかし、数日たってみてから最後のシーンのことを考えてみると、あのもやもやした終わり方が一番よかったのでは、と思うようになりました。

 

 

確かに彼は来なかった。

しかし、それは映画の中の話です。

映画が終わる=物語が終わる、とは限りません。

エンドロールが流れ、観客がいなくなり、館内の照明が落ちたとしても、物語は続いていると考えることもできます。

 

 

となると、彼が本当に来なかったどうか決めつけることはできません。

事故にあって到着が遅れただけかもしれない、店を間違えていただけかもしれない、小説のアイデアが突如浮かんで執筆していたのかもしれない。

 

 

 いずれにしろ余白を残す終わり方ではあります。

もやもやが晴れない方は、もう一度観るとあなただけのエンディングが見つけられるかもしれません。

 

 

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